トロが逃げていった日(の思い出)

プロローグ──(終わりと)始まり

羽の生えたウサギのように、
急ぎ足で 1 月は飛び去っていった。
新顔の 2 月が来たばかりの今日、
考えたくなかったことが起きる。


自分の家族である猫が家を出ていったのだ。

第 1 章──幸せな日々(だった)

朝 5 時ごろ、友だちに呼ばれた。
深夜まで働いているその友人とは、
いつもこれくらいの時間に会う。
24 時間が自由な自分は、ちょうど寝るころだ。
眠い目とゆるんだ口元で、友だちに会う準備をする。
友だちは少ないほど、会える機会は楽しくなるものだ。


アパートを出ようとすると、
うちの殿様ねこ・トロも、一緒に出たがった。
何しろ甘えん坊な子なので、
いつも抱きかかえて一緒に外へ出る。
すると、すぐにブルブルとふるえ出してしまう。
最初は寒いのかと思っていたが、玄関から離れるほど、
明らかにふるえかたが大きくなる。
家からせいぜい 5 メートルが、彼のテリトリィだ。
内弁慶なのは、誰に似たのだろう?


最近は、玄関から数メートルの場所まで続く
コンクリートの床で、トロは遊ぶようになった。
そこから先の駐車場へは、絶対に行かない。


そのはずだった。


今日もトロは、コンクリートに体をこすりつけて、
気持ちよさそうにゴロゴロしている。
見方によってはトロというよりも、
岸に上げられたサケみたいだ。
どうせ、あと数分でこわがって家に帰るけれど、
よい気分転換になるだろう。


友だちも待っているし、
トロを家に入れようかという時に──、
ちょうど新聞配達の人が来た。


自分もビックリしたが、その何倍もトロは驚いた。
全身が警戒の態勢になり、目の色も違う。
あわてた彼は、2 階への階段を上っていく。
このころはまだ、自分も笑ってトロを追いかけていた。
ところが、なかなかつかまらない。
だんだんと焦ってくる。


階段を早足でかけおりて、
とうとう駐車場へとトロは逃げ出した。
そして、隣の家の庭へ行ってしまう──。

第 2 章──早朝の隠れんぼ(はしたくない)

トロの首につけているスズの音が、
隣家から聞こえてくる。
しかし、彼の姿は見えない。
このかすかな音だけが頼りだ。
まだ近所では家の明かりが消えているから、
小声でトロを呼ぶ。


トロがいるのは他人の家の庭だし、
自分が勝手に入るわけにはいかない。
それに、追えば追うほど、彼はこわがってしまう。
どうしたものか──。


そう言えば、自分の母親がトロを呼ぶ時には、
彼のご飯を入れている皿を、指で鳴らしていた。
いつか見たテレビのコマーシャルみたいだ。
さっそく、家から皿を持ってきて、音を出してみる。
すると、先ほどよりは良い反応があった。
自分よりは、食べることのほうに興味があるようだ。
ちょっとショックを受ける。


ただ、トロは近寄ってきても、すぐに逃げていく。
自分のことを、あやしい人だと思っているのだ。
自分も、そう思う。

第 3 章──いつも自分ひとり(だと思い込む)

そうこうしているうちに、友人からメールが来る。
長い間、自分から連絡がなかったからだ。
かんたんに返信すると、心配して友人が来てくれた。


その友だちは何度かトロに会っているけれど、
まだ一度もトロは近づいていかない。
ぜひとも 2 人には仲良くなってもらいたいが、
自分にキューピッド役はつとまらなかった。
そのため、いま来てもらってもトロは逃げるばかりだ。
非情に申し訳ないが、友人にはいったん帰ってもらう。


さらに、母親も起き出してきた。
ここ数年はいつも早朝に、母は散歩へ出かける。
雨の日も風の日も散歩を続ける母から、
自分は丈夫な体をもらった。
母には、感謝の言葉しか出てこない。


いつもは母と仲が良いのだが、よりによって最近は、
ほとんど会話がなくなっている。
冷戦状態だ。
それというのも、自分がいつも家にいるからだろう。
トロが逃げたことを母に説明すると、あきれていた。
当たり前だ。


トロではなく、この自分が出ていけばいいのに──
と母は思っているのかもしれない。
明るくなるまでは見つからないと判断して、
母は散歩へ行ってしまった。


さいころの自分を育てるため、
働きに出かけていくお母さんの姿を思い出す。
母には苦労をかけてばかりだ──。
いつも、ひとり残された部屋でそう思っていた。
いまも、ひとりでトロを追う。


──いつも、自分はひとりで生きてきたのだ。
──いや、自分ひとりで生きようとしていた。


誰の助けも必要とせず、誰から好かれようともせず、
自分・自分・自分のことだけを考えている。


そのはずだった。


トロが帰ってくるように、誰か助けてください──
といつの間にか祈っている自分に気がつく。

第 4 章──逃げていく幸せ(と体温)

それにしても、ここまでこわがるのは不思議だ。
トロとは、いつでもどこでもいっしょだ。
最近は寒くなったためか、夜になると、
自分の腕にしがみついて寝ている。
それなのに──。


もしかしたら、暗くて自分の顔が見えないから、
恐がっているのだろうか。
明るい場所でトロを呼んでみたが、反応は変わらない。


トロを逃がしてから、1 時間ほどすぎた。
いまだに、つかまえられる自信はない。
あまりにも寒くて、体調を崩しそうだ。


国道 1 号線からそれほど離れていないのに、
このあたりは夜になると、かなり静かになる。
静かさだけは、高級住宅街にも勝っているだろう。
でも、そろそろ遠くで車の音も聞こえてた。


──道路にあふれかえる自動車は、
──誰を幸せにして、
──誰を不幸にするのだろう?


こういう時には、よくない考えばかりが頭に浮かぶ。
何匹も猫と一緒に暮らしてきたが、
天寿をまっとうしたのは、にゃびだけだ。


自分の普段の行いが悪いのだろうか──。


とくに近ごろの自分は、怠惰の極みだ。
褒められたものじゃない。
それでも、そこには自分だけの幸福があった。
ほんの 1 時間ほど前までは、幸せだったのだ。
トロさえいれば──。

第 5 章──(悪い)夢の終わり

しばらく、トロとの距離を離してみる。
すると、いままでとは違う方向から、
スズの音が聞こえた。
──上からだ。
極度におびえた猫は、空すら飛ぶのだろうか。


自分が住んでいるアパートの隣に、
まったく同じ作りの建物がある。
トロは、そちらを自分の住まいと思い、
階段のところへ迷い込んでいたのだ。


今度こそ逃がさないよう、慎重に近づく。
ただし、相手に緊張感が伝わるとダメだ。
動物的な本能で、逃がしてしまう。
ナンパと同じだ。


そして──やっとつかまえられた!


トロを抱きかかえたまま、急いで家へ戻る。
ちょうどその時に、また友人が心配してやってきた。
こわがったトロが、ものすごい勢いで暴れ出す。
まるで、コントみたいだ。
しっかりとトロを離さずに、無事に家へ帰した。


いつも喜びはトロと分け合っていたけれど、
今回は友人と分かち合えた。
非常にありがたい。
散歩から帰ってきた母に報告すると、
意外にもまったく怒られず、一緒に喜んでくれた。


自分は、ひとりではなかったのだ。


「母親とトロと友人の愛。
これだけ残っていれば、気を落とすことはない」
──ゲーテの格言より(ちょっと改変)

エピローグ──(いまごろ)登場人物の紹介

ということで、今となっては笑い話になりました。
もしも、あのままトロがどこかへ行っていたら──
と想像すると、ゾッとするけれど。


ところで──、
上のほうに出てきた「新聞配達の人」ですが、
じつは、そのおばさまからトロをもらったのです!
つまりトロは、自分の育ての親にビビっていた。
ミステリィ・ファンの自分にふさわしい
「どんでん返し」なオチであ〜る(オチてないよ)。


振り返ってみると、
おばさまも、自分の母も、友人も、自分も、
みんなみんな──、トロが知っている人たちです。
どんだけ恐がりなんだよッ!


トロ: 「いや、でもほら、シチュエーションによって、
人の印象って変わりますよね(キリッ」