『MATRIX』とは 20 世紀末の気分
昨日の夜は、久しぶりに『MATRIX』を見ました。
数年に一回は観ています。
1 作目は、始まって数分で面白さが分かる。
そこで調子に乗って、
「よーし、今夜はこれから、『マトリックス』を
3 本とも徹夜して見ちゃうぞー!」
と意気込みました──が、
1 本見終わったら眠いんで寝た。
ムリ。マジ徹夜とかありえねェ。
肌が荒れて脳細胞が死んで国がみだれる。
初代『MATRIX』の面白さは、
「なんだかよく分からない不安感」
を抜きにしては語れません。
「この『世界』は、『ホンモノ』なのか?
──自分はどうだ? 『生きて』いるのか?
──そもそも、『自分』とは何か……?」
そういった、人間が根本的に持っている感覚を、
派手なアクションやカメラワークで上手に包んである。
ほかの類似品がダメダメなのは、
ぐるぐる回るカメラの動きだけ真似て、
肝心の中身が空っぽだから。
虎なら回ってバターを残すが、
そういった作品は何も残さない。
──とか何とか言っちゃたりして ////
「20 世紀末の世界の感覚」を、
『MATRIX』は、ウマく描き出しているんですよね。
上で書いた「世界・自分とは?」という
認識論的な考え方を、
ワレワレのような
「日々楽しければ良し」
という凡人にも、
「──本当にそうなのか?」
と考えさせた。
そういう時代の空気をつかんでいるワケです。
同じことは、
京極夏彦さんや森博嗣さんの小説、
『エヴァンゲリオン』などにも言える。
乱暴に言えば、
すべて「認識論の話」とまとめられそうです。
20 世紀が産み落とした「気分」ですね。
──おお、このテーマで、
ちゃんとしたブログの記事が書けるな。
ブログでも書こう。そうしよう。
ああ、マジメっぽいことを
ついついうっかりと書いてしまった。
この日記では軽いことしか書かないようにして、
「足袋の端はかき捨て」
的な文だけを書こうとしていたのに……。