もの悲しさと『木綿のハンカチーフ』
ときどき、妙にもの悲しくなる。
例えば──いかりや長助さんは、もう、いないのだなぁ、とか。
──などというと、自分はいかりやさんのファンだ、という話に聞こえるが、そうではない。
例えば──たけちゃんマンをやっていたビートたけしさんは、もう、いないのだなぁ、とか。
例えば──「一生《使える》超弩級画像フォルダ」(まぁお下品)に保存されている《女神たち》は、もう、(この当時のお姿のままでは)いないのだなぁ、とか。
要するに、「自分の記憶の中にあるままの姿では、もう会えない」というのは、(大変失礼なことは承知の上)「お亡くなりになっている」のと変わらない。
いまだに自分は、ある女性の面影を引きずっている。しかし、もう、「当時の彼女」には会えない。そのことがいっそう、その女性のことを強く思わせる。
──ひょっとしたら、いま会ったらその呪縛も解けるのかも知れないが。
うーん、なんだか『木綿のハンカチーフ』に通ずるところがあるな。「変わってくぼく」と「変わらない恋人」の逆、みたいな。
『木綿のハンカチーフ』は椎名林檎さんも歌っている。聴くたびに泣きそうな気分になる。
「変わってくぼく」に対するただ一つのわがままが、「涙拭く木綿のハンカチーフ」というところが泣ける。
そう、「そんなオンナいまどきいるわけねーじゃん」であり「見たことねーよ」である。ということはつまり、「永久に会えないひと」であるわけで、「永遠性」が与えられているわけだ(飛躍しすぎ)。
「白馬に乗った王子様」は死滅した。「女性が白馬にまたがって王子を狩る」ような時代。これからは「木綿のハンカチーフをねだる女性」を男性が探す、女々しい時代かも知れない(ないない)。