信じる、ということ
信仰心の無い人間が神様について語ることの愚かさ、がにじみ出ているような記事を書いた。
<http://asiamoth.com/mt/archives/2006-09/20_2341.php>
自分は特定の信仰を持っていない。これから先も、それは変わらないだろう。
「インターネッツには神が宿る」とか「荒木飛呂彦はネ申」くらいのものだ。
で、これもずっと変わらないだろう。
「特定の信仰を持つ人を非難したり馬鹿にしたりしない」
人が何を信じるかは自由だ。カルト宗教だろうが暴力亭主だろうが、信じる者は(自分勝手に)救われるだろう。
たとえば、身近に「それを信じるのは如何なものか」というものを信じている人がいたとする。
それでも、自分は相手を責めたりしない。自分なりに「なぜこのひとは信じる気になったか」を理解──しようと努力する。
その上で、特定の信仰を自分に押しつけようとするならば、その人との関係について考えるかも知れない。
大昔に付き合っていた彼女は、生まれたときからある宗教団体に所属させられていた。
彼女と両親に連れられて、宗教団体の支部に行ったことがある。
そして、信仰している人たちに会ったり、彼女の両親から熱心に入信を勧められたが、丁重に断った。
その後も彼女との関係は変わらなかった。
それが、当たり前だと思う。
もし、入信を断ったことで別れていたら、まぁ、「そういうことだった」、と。
どういうことかは、各自で考えてください。