大海の蛙、井戸を知らず
長年、日本人をやっていると、何だかおかしな感覚になる。
例えば、
「日本は平和だ」
というと、どこをどう見ても否定的・消極的はイメージはないのに、何だか申し訳ない気になってしまう。
また、
「日本人は贅沢だ」
なども同様で、《戦後》とは比べられないくらいに豊かになった現状が、まるで間違っていたかのような錯覚。
それに、どうやら《自分》に近くなればなるほど《申し訳なさ》が増すようだ。
「三重県は平和だ」
だと、何だか三重県人は「ら、らめぇ!」とか「頭がフットーしそうだよおっっ」とか言いそうだし(──そうか?)、
「自分は贅沢好きだ」
なんてうっかり言うと、明日から回覧板が回ってこなくなりそうだ(その程度か)。
──というのは、日本の《奥ゆかしさ》ゆえ、なのだろうか?
奥ゆかしさ、もTPOをわきまえた方がいいだろう。
アメリカ人ほどではないにせよ、少しは自己主張をしてもいい時代だと思う(目安としては、タカアンドトシに「ガイジンか!」と突っ込まれない程度)。
実はそういう意味で、一人称を《自分》にしている。というのを、いま思い出した。
──《私》では「だ・である」体に合わないし、《僕》といっても誰のシモベでもないし、《おいら》は眞鍋・ブログ女王・かをり女史の専売特許だし──。
──いや、《自分》は《自分》でしかないじゃないか。《自分》らしくあろう(?)。
という風に決めた。
そんな自分の《自己主張》っぷりは、というと──。
──どんな環境でも《溶け込まない》。
というところで落ち着いている……。
大海の蛙(カワズ)、砂漠の膃肭臍(オットセイ)、珠穆朗瑪(チョモランマ)の土竜(モグラ)──といったところか。
何だかまとまりもないまま終わる。